こんなお坊さんもいたんですね^^
こういった人が大好きです。
南無阿弥陀仏。

 

ひとさじの会

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吉水岳彦上人の記事です。

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「行誡と弁栄展」②

お釈迦様ご生誕日の翌日である今日は、福田行誡上人(1809―1888)のご生誕の日です。

「明治第一の高僧」と讃えられる行誡上人とは、どれほど大きな人物であったのでしょうか。

かつて「宗派を見ず、ただ行誡一人をみる」と、その偉大さを評した方がいたといいます。

街中で僧侶に出会うと、すぐに「この僧侶は何宗なのか?」を、わたしたちは確認したがります。でも、そんな宗派のことなどまったく思い浮かべずに、ただその人の素晴らしさや尊さが語られる僧侶だったというのです。

現代ならば、ダライ・ラマ法王様のような感じでしょうか。

佛教のすべての教義に通じていたために、「八宗の泰斗」とも評されるほどの学僧でありながら、その洒脱な人柄から多くの人に愛され、帰依を受けたのが行誡上人です。

どのくらい学問をしていたのかといえば、大蔵経と呼ばれる漢文の経典のすべてを一度は読まなくちゃ、僧侶の仲間入りはできませんよと仰せになるほどです。

わが国はじめての予約出版となった、『縮刷大蔵経』8534巻の校訂と刊行を行ったのですから、その言葉は嘘ではありません。本気ですべての経典を学ぶことを勧めておられたのです。

だから、宗派の見解に強いこだわりを持つことを「宗我」といって嫌い、広く佛法を学ぶことを教えました。

すでにこの時代には、僧侶といえども自分の宗派の教えや経典以外は知らないという具合でした。

そこで行誡上人は、「佛法をもって宗旨を説くべし。宗旨をもって佛法を説くことなかれ」と教え、お釈迦様にも阿弥陀様にも宗派はなく、本来無宗旨をもって宗旨とするのが佛法であり、各宗派の教えを学ぶものは、互いに学びあい、和敬し合うべきことを示されたのでした。

「通佛教」等という言葉もない時代に、こんなことが言えた行誡上人はまことに大きな方であります。

行誡上人のご紹介は、このくらいでは書ききれませんので、ひとまず洒脱な人柄を伝えるエピソードをお伝えして、今日は擱筆いたします。

行誡上人が伊豆参拝の帰り道、箱根の料亭石内に立ち寄ったときのことです。

石内の亭主は、その客が当時増上寺の住職をしていた行誡上人であることを知り、筆と硯をもって揮毫をお願いしました。

行誡上人が「南無阿弥陀佛と書こうかな」というと、亭主は「わたしは日蓮宗の信徒なので、お題目をお願いします」と無理なお願いをいたしました。

すると行誡上人は、平然とその願い通りに「南無妙法蓮華経」とお題目を書いて与えました。

浄土宗大本山の住職が、自宗の肝要なる念佛をさしおいて日蓮宗のお題目を書いて与える等ということは、これは大変なことでございます。

それをいとも簡単に行われたことからも、宗我にとらわれぬ行誡上人の広やかな心を知ることができます。

さて、この話には続きがあります。

後日のこと。身延山久遠寺住職で、日蓮宗管長であった吉川日鑑上人(1827―1886)が、同じ箱根の石内へ参りました。そして、亭主の求めに応じて、日鑑上人も揮毫することになりました。

この時、日鑑上人は行誡上人の話を聞くと「さすがに行誡さんですね」といって、さらさらと「南無阿弥陀佛」を書いて贈ったということです。

双方の僧侶ともに広やかな佛法の心を修めた方々であったことが伝わるエピソードではないでしょうか。

はるかお釈迦さまの時代から、僧伽(さんが)と呼ばれる仏教者の集いのなかで大切にされてきた「和敬の心」を教えられます。

次回は、行誡上人のお話の続きを書かせていただきます。

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